トンデモか? いや!とんでもない史論だ。読むべし!

飯山一郎の おどろき古代史

日本は,百済の継承国家である!
遼寧省⇔大阪
衝撃的な出会い
廬龍県の位置
好太王碑
歴史の矮小化
歴史の謎が解けた! 日本のルーツは『扶余』
ないものは見つからない! 邪馬台国.
百済や帯方郡が遼西にあった」という証拠
天武天皇は,済州島の御方である!
韓国になくて大阪にある『百済』
アジアは古代ギリシャの時代から悪玉だった.
中国は『国家』ではなく『ひとつの巨大な世界』である
天武天皇から和田アキ子まで,みな同じ…
お盆が賑やかな理由 (1)
お盆が賑やかな理由 (2)
感激! 『第100回 志布志・伊崎田相撲大会』
相撲 ―遠い歴史の記憶―
蒼天は死せり,黄天まさに立つべし!
歴史発見! 天武天皇は志布志から大阪に向った!
天武天皇は種子島船で大阪に行った!
種子島の最北端・喜志鹿崎から見える景色

~ 月刊誌『パソコン通信』に載った“飯山史論” ~
“ひらがな”を考える
“葬式ネットワーク”の話
縄文文化は“世界の文化”だった
邪馬台国は何処にある?
“お盆”を考える

日本書紀の讖緯説が問いかける二つの問題  日本書紀
『好太王碑の碑文』  『三燕文物精粋』の驚愕(桃崎祐輔)
『晉書』卷九十七列傳第六十七  『無里の邪馬台国』(古田武彦)
『済州海女博物館』へ行きました  開店祝いに行きました
韓国でも 『百済』の位置さがしが はじまった
白村江の重要人物「郭務悰」も創作であった(pdf)


北平とは廬龍県

簡体字の「卢龙县」は,日本の漢字では「廬龍県」と書く.

 「百済」について…,
 梁書(りょうじょ)に「百済は遼西・晋平二郡を置く」とある.
 この所在地について,『通典』には,
「柳城(古の龍城)と北平の間を言う…」とある。
 この北平とは古の漢帝国時代の北平郡を言う。
 北平郡は「清朝」期に入り,「永平府廬龍(ルーロン)県」となった.
 今日の河北北部の、「廬龍県」である.
「百済」建国の地は,北京と目と鼻の先,河北省だったのだ.


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歴史地理の矮小化とは…

通説地図=矮小化 「百済国の南に耽牟羅国(済州島)が
あり海行三月!」と、『随書』や『北史』
にハッキリと書いてあります。
…となると、
百済の本来の位置は、赤字の"百済"
の位置にになります。
(通説の地図では、百済国が朝鮮半島
南部にチマチマと描かれています。)

 『梁書・百済伝』には…、
 「高句麗が遼東を略有すると、百済は
遼西の晋平二郡を占拠し、自ら百済郡
を置いた」…と書いてあります。つまり、
百済国は遼西にあった!のです。

     ↑クリックすると『筏船』の写真
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遼寧省朝陽市と大阪誉田山古墳の出土品が同じ!

誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した2号鞍
誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した2号鞍
中国遼寧省喇嘛洞ⅡM101号墓で出土した鮮卑族の鞍
誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した2号鞍
内側が直線的で120°角で角張っているのが特徴
中国遼寧省喇嘛洞ⅡM101号墓で出土した鮮卑族の鞍

      ≪歴史的な流れ・連鎖の説明 ≫
・遼寧省喇嘛洞は、遼寧省朝陽市の隣の北票県にあります。
・遼寧省の朝陽市は、昔の柳城です。
柳城は、百済の最初の都で、帯方郡の故地です。
・誉田(こんだ)八幡宮は、大阪府羽曳野市にあります。
・以上が…
・柳城(馬韓⇒帯方郡⇒百済)⇒(渡来人)⇒誉田八幡宮
 という流れです。

・(参考)鑑定した桃崎祐輔・福岡大学助教授も、上の2号鞍
     と百済の関係を示唆しています。
・(参考)後に百済は柳城から遼東半島の東まで東遷します。
・(参考)柳城の下、南西方向200kmに秦皇島があります。

桃崎祐輔・福岡大学助教授のMSGを読む  誉田八幡宮の『宝物紹介』  TOP

空港での衝撃的な出会い

空港で「柳城人」と 百済人・飯山一郎 帯方郡は"柳城"にあった。間違いない!
と,空港の待合室でPCに書いていた。
その矢先、中国人達が隣の席に座った.
私は,「どこから来たの?」と話かけた。
「遼寧省の朝陽市だ」と言う。
おお!"朝陽"こそ昔の"柳城"なのだ!
「殷の国から来た人の町だった!」の、
「古い遺跡が無数にある!」のと、
腰が抜けるような話を淡々と話す
「柳城人」達に,私は質問を続けた.
    空港で「柳城人」と 百済人・飯山一郎
殷の遺跡は市内から遠いの?
少し遠いな.
その町の名前、分かる?
イェバィスゥに行けば,今も遺跡掘ってる.
それ漢字で書いて下さいよ.
『叶柏寿』
私の電脳の路線図.これの何処の駅?
ほれ,ここが『叶柏寿』昔の楽浪郡だよ!
…足が震え,胸が高鳴った。

←(路線図をクリックすると別窓に拡大図)
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好太王碑の位置

好太王碑の位置 左は,好太王碑のある場所を示す
地図です。平壌からは400kmも北に
あります。好太王碑の第三面には
次のような文字が彫られています。
  「倭 不軌侵入 帯方界
 これは、「倭は不軌(無軌道)にも
帯方界(帯方郡の故地)に侵入した」
という意味ですです。
 つまり、帯方郡が平壌の近辺では
なく、満州の地にあったことを示して
います。
 それにしても、左の地図も…、
百済が、朝鮮半島の南部に矮小化
されて描かれてます(笑)
 済州島まで、船で2日の距離です。
 …これを、今まで誰も、変だ! と
言わなかったのは、知的怠慢です。

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