1992.09
”島国根性”を蹴飛ばして、
”環太平洋ネットワーク”に目を向けよう!

★われらが祖先・縄文人の広大なネットワークに学ぶ旅その1〜邪馬台国は何処にある?

何度も聞かされる”言葉”
 島国根性。この言葉は日本人なら誰でも一度は耳にする。一度ならず何十回も聞かされた人も多いだろう。自分が属する民族を自己卑下するこの言葉が使われはじめたのは、江戸時代からである。
 幕末、寛政の改革を断行した老中松平定信は、「日本人は考え方が狭いから、下町の人は山の手を知らないし、川崎の外へ出たことがないから海といえば波の静かな品川の海のようなものだと思っているし、河といえば墨田川ていどの川しか知らない。考えもただただ目先のことだけで、遠慮遠謀などとても考えられず、ますます考え方が狭くなっていく……」と日本人の島国根性をなげいていた。
 ところが、寛政三奇人の一人で警世家の林子平が、「日本橋の水はヨーロッパまで続いている」という事実を指摘して外患に対して警鐘を鳴らしたとき、上記の松平定信は林子平の説を「奇怪異説!」であるとして林子平を厳重な謹慎刑に処してしまった。
世界が見えない”条件”
 幕府の頂点にいた松平定信にして以上のとおりなのだから、幕府の鎖国政策で島国の中に閉じ込められていた江戸時代の人たちの世界認識というのは、おして知るべし、まるで世界が見えていなかったのである。
 こうなった原因は、鎖国政策のほかに、福沢諭吉が「日本国中の幾千万の人間がそれぞれ幾千万個の箱の中に閉ざされているようなものだ」と表現した幕藩体制の閉鎖性にある。江戸時代の人たちは、徳川幕府の鎖国政策によって小さな島国に閉じ込められると同時に、閉鎖的な幕藩体制の中にも閉じ込められていたのである。こうした二重の意味での閉塞した状況が、なんと二百年以上も続いたのだ。
日本人が、ガッチガチの「島国根性」をもってしまったのも仕方のないことなのである。(島国だから即、島国根性ではないのである。)
縄文人の”環太平洋ネットワーク”
 この「島国根性」の話は江戸時代以降つい最近までの話だ。江戸時代よりも昔のことをいうと、日本列島に住む人間達はもっと広大でもっと雄大な世界を舞台にして活動し、また暮らしていた。最も壮大であったのは我々の先祖、縄文人だ。縄文人は環太平洋をぐるりと舞台にした巨大なネットワークをもっていた。縄文人の一派はアリューシャン列島を渡ってエスキモーになった。アメリカインディアンも縄文人の親戚だ。南米のペルーにインカ帝国を築いたのも縄文人の仲間だ。もちろん、朝鮮人も韓国人も中国人も皆親戚だった。蒙古人だってそうだ。
 ミクロネシア人、ポリネシア人、メラネシア人等の太平洋民族の遺跡を調べると縄文土器によく似た土器が出てくる。おそらく、みんな親戚だったのだろう。そして太平洋の彼方の民族と縄文人とを結ぶネットワークは、『海上の道』(柳田国男)を流れる雄大な黒潮だったのだ。
歴史も”広い世界”のなかで
 こう考えてくると、われわれ日本人の歴史も、環太平洋ネットワークのなかにおいて考えないと狭いものになってしまう、ということが理解できるだろう。
 しかし、すでに大変に狭量な歴史観が氾濫している。たとえば邪馬台国論争がそうだ。優秀な頭脳が、『魏志倭人伝』を後生大事にもって、畿内だ九州だと狭い国内をえらい金と手間暇をかけて捜しまわっている。これは『魏志倭人伝』が、日本古代の重要な事実が書かれてある重要文献であると信じこまれてきたからである。しかし、通称『魏志倭人伝』は、有名な『三国志』の中の「魏書」の末尾にある「烏丸鮮卑東夷伝第三十倭人之条」という二千文字足らずの雑記録にしかすぎないのだ。
 たしかに日本の古代史は、中国の資料によって明らかになってくるわけだが、世界有数の歴史大国である隣邦中国に残されている歴史資料は、実に膨大な量にのぼる。『魏志倭人伝』という小さな雑記録だけでは、日本の古代は決して明らかにはならないのである。
 それでも『魏志倭人伝』は真剣に読まれてきた。それは「倭人在帯方東南大海之中」という文章がいかにも日本列島を指すように見え、また、邪馬台国の存在場所と女王卑弥呼とは誰であるのかという疑問が、民族のルーツを知りたいという我々の関心とロマンを大いに誘ってやまないからなのであった。
卑弥呼発見の旅の”出発点”
 さてさて「邪馬台国発見の旅」の出発点は、楽浪郡と帯方郡だ。これは誰でも知っていることだ。そして帯方郡は朝鮮にあって、その場所は朝鮮半島のソウル近辺だと。……ちょっと待った! 違う違う。これが大間違いのはじまりなのである。
 現在の朝鮮半島が「朝鮮」とか「韓」と呼ばれるようになったのは14世紀になってからなのだ。正確には、明(みん)の太祖の洪武25年、西暦では1300年代の初め頃だ。明史巻三本紀第三太祖の記述中に、「高麗李成桂幽其主瑶而自立以国人表来請命詔聴之更其国号曰朝鮮」とある。「高麗の李成桂その主瑶を幽して自立す。国人、表を以て来り命を請う。詔(みことのり)して之を聴き、その国号を更めて朝鮮という」、つまり、高麗末期、明の太祖が李成桂に与えた国号が「朝鮮」ということで、今の朝鮮半島が「朝鮮」と呼ばれたのは、14世紀初頭のこの時からだった。これ以前は「朝鮮」とか「韓」と呼ばれた場所は、別の場所にあったのである。
“正しい地図”で旅をしよう!
 3世紀のことを書いた『魏志倭人伝』を読み解くのに14世紀の地図を使っていたのでは、邪馬台国はいつまでたっても発見できない。旧来の定説は、古代の朝鮮を何の疑いもなく現在の朝鮮半島に当てはめて語っていた。だから旧来の説は、その出発点からして誤断にもとづく謬説であるといわざるをえない。
 ではいったい、朝鮮は、そして、帯方郡や楽浪郡は何処にあったか? ということが問題になってくる。
 古代中国に関する膨大な文献を丹念にたどってみると「朝鮮」と指称した場所は、遼河の東・遼陽・開原・瀋陽方面にあった。つまり今日の「遼寧省東部一帯」に「朝鮮」と称された古代国家は存在していたのである。たとえば後漢書巻一の光武帝紀には「楽浪は郡、もとの朝鮮国なり。遼東にあり」と明確に書いてある。この朝鮮を征服し、楽浪郡をはじめとする四つの郡を設置し、朝鮮を直接統治下においたのが漢の武帝であった。紀元前108年のことである。したがって、漢の楽浪郡は今日の中国東北地方に存在していたのであり、現在の朝鮮半島では断じてないのである。
 「帯方郡」は楽浪郡の南方に分治された郡であるから、その所在は現在の遼東半島ということになる。この遼東半島にあった帯方郡から『魏志倭人伝』に従って邪馬台国を目指すと、決して日本列島に到着することはない! 邪馬台国は、日本ではない所の、別の「倭人の国邑」にあったのである。よって、畿内説も九州説も錯覚にもとづいた誤謬の説なのである。のみならず、壮大な歴史の流れを小さな日本列島の中に矮小化するところのタコツボ的な歴史観と言わねばならない。
卑弥呼は”公孫氏”の係累である
 中国の史書中には「韓伝」と称すものがあり、「韓」が楽浪・帯方2郡の南方に存在したことを伝えている。この韓とは、馬韓・辰韓・弁韓の「三韓」で『魏志韓伝』の記載では楽浪郡の南に位置していた。
 韓伝には「韓の南、倭と接す」という記事がある。三国志魏書韓伝では、倭が韓に「界接」しているとも記載されている。「界接」とは、境界を接しているということである。これが『魏志倭人伝』では「倭は帯方の東南海中」に存在していたとあるのだから、総合すると、倭は、黄海を囲む陸地の広範な区域を指すものと解釈すべきであろう。『邪馬台国』はこの広範な地域のある一地方に存在していたのである。
 注目すべき説がある。耶馬とは祁馬で、祁馬は蓋馬と順々に転訛されてきたことを文献的に証明したうえで、邪馬台国は、実は「蓋馬国」という国のことであるというのである。この説については、またの機会に述べたいが、この蓋馬国は4世紀まで実在し消滅している。となると「謎の4世紀」は決して謎ではない。
 最後に、大問題の女王卑弥呼についてであるが、『晋書』巻九十七四夷伝に、「その女王の名を卑弥呼という。宣帝の平らぐ公孫氏なり……」と記載されている。すなわち、「卑弥呼は公孫氏の係累である」 と明記されているのだ。四夷伝の記述は他の倭伝中の記述と前後は同じである。だが、諸多の倭人伝が遺漏したと思われる記述を見事に載せている。正に御撰なのである。なお、上記の宣帝とは司馬仲達である。こういう重大な記述を日本の歴史学者は何故に注目しないのであろうか? 
 「蓋馬国」も「公孫氏」の勢力圏内にあったというのに……。
 紙数が尽きてしまった。以上の邪馬台国論は、栃木県在野の偉大なる歴史家、山形明郷先生の著書『卑弥呼は公孫氏』(発売元:栃木県足利市の岩下書店)に全面的に依拠している。島国根性という言葉を思いださせる旧来の狭隘な歴史観を完璧に超越している山形先生の本は、我々に、より雄大な構想でアジアの歴史を徹底的に見直すべき必要を痛感させてくれるのだ。      (飯山一郎)

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