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古代史再発見第1回 卑弥呼(ひみか)と黒塚 1998年9月20日(日)
               大阪豊中市立生活情報センター くらしかん

古代史再発見

無里の邪馬台国


古 田 武 彦



 さてそれでは次のテーマに移らせていただきます。
 先日わたしの大好きな映画監督の黒沢明氏が亡くなられた。あの方の映画の中で、ある意味で独特の印象が深かった映画がございます。それが『生きる』いう志村喬主演の映画でございます。何故かと言いますと、私の一つの経験から来ています。
 東大の史学雑誌に「邪馬壹国」という論文が九月の終わりに載りました。その後十月の初めに読売新聞に大きく記事が載りました。その件で十一月の始めに、当時学校の教師をしていた洛陽工業高校に、朝日新聞出版局(当時)の米田さんという一人の紳士が来られて、「新聞記事を拝見しましたが、読売新聞さんから本を出されないなら、朝日新聞から本を出されないでしょうか。」と言って来られた。
わたしは大変ありがたい話ですがお断りした。「邪馬壹国」については東大の史学雑誌に掲載されたことが全部である。東大の史学雑誌に載った主旨、それ以外は何もない。

 「邪馬台国、邪馬台国と言っているが、原本は邪馬壹国となっている。邪馬壹国にもう一度帰られて、そこから再出発すべきではないでしょうか。老婆心ながら中世の研究者から古代史の方々に生意気ですがご忠告申し上げる。」

 そういう主旨の論文だった。それが済んだら親鸞研究という中世史に帰るつもりだった。今の論文だけでは本になりません。無理ですとお断りした。しかし四・五日経ってまた来られる。「ちょっと近くに来ましたので、どうでしょうか。気が変わられたでしょか。」とまた来られる。何回断っても言って来られる。だいたい来られること自体が、押しつけがましいと言えば言えなくはないですが、非常にあっさりしている。また電話を何回もしてこられる。何回断っても。決して押しつけがましくはないのですが、しかし何回も言って来られる。終わりにはなんだか私の方が居ごごちが悪く、「邪馬壹国」がどこにあるか、見当もつかないが、少し研究してみようかと思った。そう思い始めたは良いけれど、大きな障害があった。
 その当時「邪馬壹国」の在処は、分からなかった。邪馬一国はただ出てくるのではなくて、方角・里程付きで出ていた。史料を見ましょうか。

從郡至倭循海岸歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對海國・・・絶島方可四百餘里・・・南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國・・・又渡一海千餘里至末盧國・・・東南陸行五百里到伊都國・・・(東南至奴國百里)・・・東行至不彌國百里(南至投馬國水行二十日)・・・南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月・・・
(行程以外の解説は省略、)
從郡至倭循海岸韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國

 出発点が帯方郡から出てきた。郡が何処にあるかは分かり切っているから書いていない。楽浪郡は平壌、それから別れて出来るのが帯方郡です。その帯方郡(ソウル付近)から出発して、郡より倭に至る。海岸を水行して、韓国部分は南乍(たちまちみなみ)、東乍(たちまちひがし)し、陸行する。その北岸に到る。従来の考えでは韓国内は水行とされていますが、私はそうでなく、陸行と理解しています。ルートはほぼ現在の釜山への新幹線や鉄道路線の通っている山と山の間のルートです。その北岸とは、倭の北岸のことです。
始度一海千餘里至對海國・・・絶島方可四百餘里南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國・・・方可三百里・・・又渡一海千餘里至末盧國
 対海国とは対馬の南半分を中心に浅茅湾のことです。瀚海とは早い海ということです。一大国は壱岐の島ことです。また一海を渡る。末盧國に至る。松浦が末盧國です。

東南陸行五百里到伊都國・・・丗有王皆統屬女王國
 東南の方向へ陸行出発する。ぐるっと海岸を回ることになりますが、糸島郡の志登神社辺りと考えられる伊都国へ着いた。
(伊都国にも代々王がいたが、現在は女王国の家来になっている。)

東行至不彌國百里
 そこから東に百里行くと不弥国がある。

南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
 南に行くと邪馬壹國に至る。そこまで水行十日陸行一月掛かる。

 つまり、いきなり邪馬壹国が出てくるのではなくて、邪馬壹国に至る方角と里程が付けて書いてある。東京から大阪府豊中に来るのは、いきなり豊中に来るのではなく、鉄道で名古屋まで何キロ、また京都まで何キロと書いてある。大体の方角も書いて有る。ですから、この場合邪馬壹国がどこにあるかというのは、書いてある方角に里程通り行けば良い。ところがこの問題に考えているうちに、とんでもない問題にぶつかって来ました。今読んだ倭人伝に書いてある距離を足してみます。ところが全体の里数に合わない。加えても全体の里数に合わない。
全体の里数は書いてある。「郡至女王國萬二千餘里」。帯方郡から女王国まで一万二千里とある。ですから全体の里数は一万二千余里と書いてある。ですから各々の数字を足してみて、全体の数字に成らなければならない。当然ながら。ところが各々の数字を足してみても一万二千里にならない。

 七〇〇〇余里  帯方郡治~狗邪韓国
 一〇〇〇里   狗邪韓国~対海国
 一〇〇〇里    対海国~一大国
 一〇〇〇里    一大国~末廬国
  五〇〇里    末廬国~伊都国
  一〇〇里    伊都国~不弥国

一〇六〇〇余里・ ・合計

 部分を足しても全体にならない。 もう一度詳しく言いますと、全体を足してみます。その時注意する問題点が色々あるのですが、二ヶ所だけは書き方が違う。この理解です。

  「南至投馬國水行二十日」
  「東南至奴國百里」

 他は「渡~(距離)至~国、(方向)行至~国(距離)」等とある。ところが上の二つは「~へ行って」という動詞が無く、いきなり「至」となる。書き方の様式が違っている。「投馬國」と「奴國」へは書き方が違う。いきなり「至~國(距離あるいは時間)」とある。
 わたしはどうも書き方の様式が違っているのは理由があって、「南至投馬國水行二十日」とは、不弥国から投馬国へ行く行程であって、もう一度邪馬壹国に行くのに水行が入ってくるはずがない。ですから不弥国から投馬国へ行くのに南の方へ水行二十日ですよ。そういう注釈を加えていると見なした。そうしますと同じ文型が出ているのが、伊都国から奴国に対して「東南至奴國百里」とある。これは東南に百里行くと奴国ですよ。注としてある。そう考えた。
 以上奴国・投馬国を除いて、全部加えると一万六百里。一万六百里にしか成らない。つまり一万二千里には千四百里足らない。いや奴国の百里も行路に加えると考えても似たようなものですが、それでも足らない。他の理解でも足らない。私の理解では千四百里足らない。部分部分を加えて全体にならない。そんな馬鹿な話はない。これが解決しないままで「邪馬壹国はどこか。」と私が言ってみても、どうにも成らない。これが解決しないままでは、どうにも成らない。そのように、わたしは考えた。「千四百里。千四百里。」と明けても暮れても考えていた。その間に西宮の米田さんが「どうですか。」定期的に連絡して来られる。イライラするのだけど、どうにもならない。そういうことで過ぎていった。その時は学校は夏休みでした。夏休みがあるというのはありがたいのですが、一生懸命考えても、どうにもならない。それで今日のような八月の暑い時、これはどうも足し忘れがあるのではないか。後から考えたら血のめぐりが悪いものだから、さんざん考えた。
 これは、なにか足し忘れがあるのではないか。こう見てみまして、そこで対馬と壱岐の「方」に着目した。(対馬)

至對海國・・・所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑
(壱岐)
至一大國・・・方可三百里多竹木叢林有三千許

 対海国・一大国に「方」とある。そこで有名な「方法」の概念に突き当たった。皆さんは「方法」という言葉を明治時代から英語のメソッドの訳として当ていますが、当てる前から中国では周代から「方法」という言葉はあります。算術の本がたくさんありますが一番古い算術の本として『周髀算経』という天文算術の本があります。この本の話も、話し始めると面白すぎて長くなるので簡単に言いますが、周に周公という人が、貴族と対話している。何を対話しているかというと、星の運行について対話している。これは現在の天文学の知識により、今から三千年前、日本では縄文時代後期末のBC千百年前の星座がどうであったかについて、ここで二人が話していることが、裏がとれる。普通は本当で有るかどうか確かめようがないが、この場合は確認が出来る希なケースです。
 その『周髀算経』が出来たのは漢の終わり、集大成したものですが、周代の終わりにすでに「方法」の概念が出来ていた。「方法」とは何かと言えば、土地の面積を示すものである。土地の面積を相当する正方形にあてはめ、、一辺をAとし、正方形Aの二乗で土地の面積を示すものである。これだけです。あまり正確とは言えないと思うかもしれませんが。土地の面積は大体ぐちゃぐちゃしている。規格通りの円や正方形の土地はあまりない。ぐちゃぐちゃしている複雑な形の面積を示そうとすれば、どうしたら良いのか。現在の方法でいえば、ぐちゃぐちゃした曲線の方から言えば外接、正方形の方から言えば内接する正方形を作り、これで長さを求めていく。その正方形の長さの二乗が面積となる。余り正確とは言えないわけで、ものが全て正方形になるとは限りませんから、余りがたくさんある。それではルーズだと思うでしょうが、実はそれなりに正確ですよ。それでは現在のグラフはどうか。その「方法」の数式化にすぎない。その「方法」という方法の上に立って、あらゆる自然科学は成立している。現在ではこれは有名なフェルマの定理として、「方法の発見」は古代では重要かつ有名な発見である。古代インドにおける「ゼロの発見」と並んで、これなしでは近代科学は成立しない重要な発見である。「ゼロの発見」については、それを物語る本があり、 きちんと評価されているが、「方法の発見」については、誰かがそういう本を書いて頂けないかと思っている。
それで元に戻り、その「方法」の概念により面積が書かれている。島の大きさが求められる。これも後になって言えるのですが対馬の対海国は「方四百里余」。壱岐の一大国は「方三百里」。それで対海国の「方四百里余」の方は対馬全体ではなく浅茅湾を含んだ南島ですが、「余」が付いてあるので強です。壱岐の場合は、何も付いていない。だからドンピシャリか、少し弱である場合は「余」がない。この対海国と一大国は、明らかに「里」で表してあるのに、この二つを従来は全然足していなかった。「里」と書いてあるのにぜんぜん計算に入れてなかった。入れたらどうなるかと考えた。この場合は傍線行程と考えた奴国と投馬国を除外した。その結果をまとめたものです。

『古代史六〇の証言』〔駿々堂)

証言一八 倭人伝の迷い道

行路解読『「風土記」にいた卑弥呼 古代は輝いていた 一』

周旋問題 朝日文庫

 その対海国と一大国の「二辺通過(半周読方)」として、図の通り二つ可能性が考えられます。上の方が実体に即しています。ですが、どちらで行っても半周ずつ(四百里余+四百里余)+(三百里+三百里)が里程に入るのではないか。ぐるりと一回りしますと元に帰りますが、女王国に行く目的で向かっていますから、この場合は一回りして元に帰る必要はない。
 そうしますと、この「二辺の和」を加えることを考えたのは誰か。『三国志』の著者陳寿ですよ。そう考えて「一万二千里余」は計算で出した。これは計算で出さなければ、部分抜きで全体になるということはない。計算なしではハッキリ出ませんから。部分部分なしで総計が出ることはあり得ませんから。それで総計は決まってくる。その総計の出し方が今問題となる。それがいまの千四百里足らないと言うことは、どこか足し忘れがあるのではないか。 その足し忘れ、それが今の半周部分(二辺)である。

対海国の半周一大国の半周
(四百里+四百里)+(三百里+三百里)=千四百里

 この足し忘れが千四百里である。もうこれには本当に飛び上がった。
 お恥ずかしい話ですが、アパートの二階に居ましたが、暑いので真っ裸で居ました。ちょうど妻が一階のところで洗濯をしていました。真っ裸で飛び降りて、妻に「わかった。!わかった。!」と報告したことは忘れもしません。
これが古代史に本気で飛び込み、深入りすることになった瞬間です。
これで初めて、部分を足して全体になる。今のように見ていくと一万二千里になった。

 七〇〇〇余里  帯方郡治~狗邪韓国
 一〇〇〇里   狗邪韓国~対海国
 八〇〇余里・・・対海国の二辺
 一〇〇〇里    対海国~一大国
 六〇〇余里・・・一大国の二辺
 一〇〇〇里    一大国~末廬国
  五〇〇里    末廬国~伊都国
  一〇〇里    伊都国~不弥国

一二〇〇〇余里・・・・・合計


 これで初めて「倭人伝は信用して良い本なのだな。」とこう思った。「信用して良い本だな。」とは何をいうかと言われるかも知りませんが、部分を足して全体にならない本を、わたしは真面目に研究することはないよ。そのような不誠実なインチキな信用できない本を研究するために、自分の一回しかない人生を、こんな本の為に使うことは、ばかばかしい。そんなことは言わなかったが内心はそう思っていた。ところが今のように部分を足して全体に成った。当たり前と言えば当たり前だ。これなら信用できる。これなら真面目に研究してよい。わたしがそう思った瞬間だ。

 と同時に、この瞬間に実は邪馬壹国の場所は決まってしまった。私はそれ以前は、邪馬壹国の場所を予定していなかった。邪馬壹国の在処を知らなかった。しかし条件的に決まってしまった。
 なぜかと言えば不弥国迄で部分部分の里程は終わっている。
 先ほど言いましたように帯方郡から出発して、対馬・壱岐を通り、松浦国から東南へ向かい海岸を回って糸島郡の伊都国迄来た。そこから伊都国から東に行けば不弥国。不弥国へは普通の書き方で書いて有るから百里東に行くしかない。その不弥国から東に行かない。不弥国はどうみても博多湾岸しかない。当時不弥国が博多湾岸の 入り口になるか、博多に近い方になるかは、決めかねてはいたが 博多湾岸であることは疑いがない。従来の研究も不弥国が博多湾岸で有るとしている。そうすると不弥迄で部分部分の里程は終わっている。今までの考え方で一万六百里になるといったのは不弥国まで。博多湾岸までで一万六百里。ところが今のように「対海国・一大国の半周読方」を導入して千四百里を加える。そうすると不弥国迄で総里程は終わってしまった。一万二千里になった。総里程は博多湾岸で終わっている。ということは邪馬壹国に着いたということです。邪馬壹国に着いていた。
 わたしの本『「邪馬台国」はなかった』のキーワードは、「不弥国は邪馬壹国の玄関」 である。不弥国に着いたという事は博多湾へ入った。邪馬壹国に着いたということです。
 わたしは博多が邪馬壹国になろうとは、夢にも思いもしなかった。漠然としたイメージではまだ南の方ではないかと思っておった。その証拠というか、つまらない証拠ですが読売新聞で三回ばかり書いた記事の中では、「博多湾岸の不弥国が邪馬壹国の玄関である。邪馬壹国は博多湾を原点にして、不弥国の南のどこかにある。」と書いたことがあります。(笑い)私が邪馬壹国の在処を知らないことを示していた。しかし、まさか出発点の不弥国、博多湾が邪馬壹国であるとは夢にも思わなかった。
 今から振り返ってみれば、「半周読方」を導入しなくとも博多になるはずだった。なぜならば行路が終わっているのは不弥国迄であることは疑いがない。足らないのは何かの理由があって足らないけれどもそこから先は書いていない。先の史料があるわけではない。博多湾岸までしか史料がない。そうであれば博多湾岸のどこかに「邪馬壹国」が成らなければならない。
 このように行程を足して行くと足らない。明らかに不足する。それを今のように「半周読方」が導入されることによって、「邪馬壹国は博多湾岸とその周辺。」ということに成りました。邪馬壹国は南側と東側は分からない。『魏志倭人伝』は女王国に到着したことで終わっている。女王国が戸七万戸の国であると書かれている。 そこで終わっている。南側と東側はどこまで広がっているか書かれていない。書かれていないから分からない。よく読者に「邪馬壹国の範囲はどの辺りを指すのでしょうか。」と聞かれるが、想像では いろいろ議論は出来るけれども想像にすぎない。『倭人伝』という史料による限りは分からないと言うのが正確である。書いていないから分からない。西と北は分かる。西は糸島側で、北は博多湾である。南と東は分からない。分からないものは分からない。「邪馬壹国は博多湾岸とその周辺である。」と、ぼやかした答えになったのはそういう理由による。
 今わたしが言った論理は三十数年足っているが、わたしが、たどった論理を調べた人は誰もいない。古田はそう言ったが、「里程付きで、あれは間違いだ。」と言った人は誰もいない。部分を加えて全体にならなくとも良い。そういう乱暴なことを言う人はいないと思うが、古田以外の方法で「部分を加えて全体になるよ。」と言った人も誰もいない。誰もいないままで邪馬台国、邪馬台国と言っている。テレビも新聞もそう報道している。しかしこれは無理ではないか。
 『三国志』には里程抜きで「邪馬台国」とだけ有るのではない。一人歩きしては困る。きちんと里程が付いている。里程を外して 邪馬台国が、近畿大和だの、九州山門だと言ってみても駄目なのである。やはり里程の論証を付けて、古田の論証はこういう意味で だめ。里程の論証を付けて、ここが邪馬台国である。そう言わなければ学問としてはだめ。ところが古田の言うような里程の論証に踏み込むと、古田のペースに乗るから止めておけ。はずせ。シンポジウムにも呼ぶな。そして邪馬台国。新聞もテレビも学会も全部そうである。私はそれは「無里の邪馬台国」。そういう「無里の邪馬台国」をいくら言ってみても通るはずがない。明治以後のやり方、短ければ敗戦以後の体制のやり方に無理が来ている。古田のようなことを言い出したら、話がややこしくなると言うので一切無視。今さら戦前のように弾圧は出来ないが、古田が書いたり講演することは許すが一切無視する。無視する方針で来ている。いくら無視しても、今私が言っている道理には、かなうはずがない。無視することが無理だということを、一回聞いたなら誰も忘れることは出来ない。部分を全部足すと全体になる。そういう私の意見の方が道理にある。結局滅びるのは、私の言うことではなくて、「無里の邪馬台国」を言い続けている新聞やテレビや学会、その方が全部の消滅するしかない。消え去って行くしか仕様がない。
 生意気なようですが、幸い、わたしは青年の時それを経験しました。敗戦までに、明治以後言い続けられていた説が有ったではないか。金科玉条、絶対動かしてはいけない。それに違反すれば弾圧された。そういうことをさんざん聞かされた。ところが消え去ったのは弾圧した体制の方の考えである。私は青年時代、それを見たし聞きました。実は弾圧した体制の方が短いのであって、消え去ることになる。真実に達する方が強い。私は青年時代それを知って、やはりそれを疑うことなく来ました。同じように無理を通していても、やはり消え去るのは無理を通している方である。私はそれを夢にも疑うことは出来ない。


補足

 後半を始める前に、先ほどお話した中の尻切れトンボといいますか、補足をしたいと思います。黒沢明映画の中で最も印象が深かった志村喬主演の『生きる』いう映画と関係する件で少し述べたいと思います。西宮の米田さんが定年退職されて引退された後、自宅にお伺いした。そのとき次のような述懐をお聞きした。朝日新聞社 に初め入ったときは社会部に入った。ところが結核になった。当時の結核は大変な病気で完全に直らない。入退院を繰り返した。そのうち、とても無理だと思うようになった。若い人たちが次々社会部に入って来るのを見て、自分のように病気をした人間では、とてもそれに互してやっていけない。それで何度も断ってきたけれども、出版局に移るという決心をした。新聞社の中では出版局というのは日の当たらないというか、脇道の部局らしい。しかしそこにも救いはある。新聞社の出版局というのは、九割方は新聞に載った記事を収録して本にする。そのために作られた部局である。言ってみれば文字を縦を横にするようなもので単純作業で、面白味も何もない。ところが一割か五部かは自分の企画で本を作ることが許されている。こう聞いた。これに賭けよう。自分はこんな体では一生は短いが、自分の企画でこの本を作った。そういう本を作りたい。それが出来たら私の人生は意義があった。そう考えるようになった。そう思って今まで断ってきた出版局へ移ることを決心をした。そして 出版局へ移った。それで引退した後、私は幸せな人生を送ることが出来たと思っています。そう語られた。私は二冊の本をだすことが出来た。一つは飛騨のユニークな家屋を取った写真集、高山の写真館の店主が作られた写真集です。その方を知って朝日新聞社から出した本です。現在ではその方面では知られた方になられた。これは私が企画して出版した本と思っております。それと一つは古田さんの本です。『邪馬台国はなかった』『失われた九州王朝』など、これも私がお願いして企画し出版できた本です。この本を企画し出版できたことを誇りに思っています。
 それを聞いて、あっと思った。わたしのところへ繰り返し巻き返し来て「お願いします。どうでしょうか。」というぜんぜん動じない姿。ぜんぜん強引ではないですが、 誠に強引です。(笑い)「どうでしょうか。」と、また来られる。それに結局負けたというか、その圧力に引きづられて、邪馬台国はどこかという仕事をした。
 どっかで見たような姿だと思っていたら、志村喬主演の『生きる』の主人公の姿である。ガンを宣告されて後何カ月の命をどう生きようかと考えた。役所の仕事のベテランで、役所の陳情を受け付け、いかに陳情をごまかすかという名人になっていた。ちゃんと知っていたのだけれど、今度は本気で取り組んでいった。上司がびっくりする。こんなもの真面目に持ってきてあなたは一体どうするのだ。しかしお願いします。お願いします。・・・と言うではありませんか。あの姿です。あれは人間の迫力ですね。大きな声を出すとか、怒鳴るとか、演説をするとか、そういう迫力ではありません。やはり 本当の意味で、人間の命を懸けた迫力。わたしはそれに引きずられて仕事をすることが出来た。そういう意味で、わたしのところへ繰返し来られた米田さんのお陰で仕事をすることが出来た。こう思いました。
 それから、つまらないことを申し上げますが、わたしが映画の中で夢中になった映画があります。今回には直接関係ありませんが、一番繰返し良く見た映画が黒沢明の『わが青春に悔いなし』です。もう百回以上見ました。東京でも仙台でも広島でも居るときに映画が来ましたら、繰り返し巻き返し映画館へ行って朝から晩まで見ました。おそらくわたしの精神に影響を与えているでしょう。
 それとおそらく第二番目に良く見た映画が「キュリー夫人」の映画です。キュリー夫人の伝記です。クリア・ガースンという名女優、おそらくその美人の顔に見に行ったのではないでしょうか。百回とは行かないが何十回となく繰返し見ました。
 後になってテレビで放映していましたので、なつかしいと思って見ていました。ある箇所にきて、思わずアッと叫んだ。映画の三分の二ぐらい上映されたところがハイライトになっていました。要するにキュリー夫人がラジウムから放射能を発見しようとして、すごい労力で抽出した。何万回も濾過試験を行うのですが、どうしても数が合わない。全体を足して八という数値になるのに、知られた放射能を持った物質を測定してみても四にしかならない。どうしても四足らない。それで非常に悩む。旦那さんがお師匠さん兼同僚ですが一緒に悩む。家で居るとき、夜寝ているときに気が付く。あの中に有るはずがない。そう思ってゴミ箱に捨てていたゴミ屑の中に、あの中に放射能があるかも知れない。あそこに有れば、物質の概念が変わってしまう。それで大学の実験室、倉庫のような雨漏りのひどい汚いところですが、そこへ旦那さんと夜中に行き、測定してみると反応が有った。足らない四が有った。ゴミ屑の中に。その瞬間に放射能が分かった。記念すべき瞬間であり、もしかしたら原子爆弾が出来る瞬間であったかも知れませんが。この映画のハイライト感動を生んだところだ。それも関係した。
 わたしが倭人伝をやるときに、なぜ「部分を足して全体にならなければならない。」ということに執念のようなものを持ったのは、どこかでこの映画に影響されたかも知れない。やっと五〇代になってから気が付いた。よけいな話ですが、言わせていただきました。

制作 古田史学の会
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