1993’06
★”葬式のネットワーク”の話
”葬式儒教”を形作る日本人独特の死生観

 「局面が苦しいときは、あえてユッタリとかまえるんだぞ。ニコニコと笑っていられれば一人前の勝負師だ。」と、将棋に勝つ秘訣はウデよりもハッタリにあることを私に教えてくれたのはK老人だ。
豪快で優しいタヌキジジイ
    K老人の大往生
 警察の関係者には読んでほしくないのだが、賭け将棋の面白さと儲けるコツを伝授してくれたこともあった。
 「金があって弱い奴からはむしり取れ!」と、K老人の金に対する執念は見上げたものだった。
 「最初の2〜3局は安い賭け金にして適当に負けろ。敵の繰り出すハメ手にわざとひっかかって、敵が慢心するような負け方をするんだ」… こういうのを本当のタヌキ・ジジイというのだろう。
 「負けたら派手に口惜しがるんだ。そして、賭け金を10倍ぐらいにハネ上げるんだ」…こうなると、タヌキというよりはキツネだ。
 「そして、大したことないなぁ、などと敵を馬鹿にするようなことを言いながらセセら笑うんだ。そうして相手を充分に口惜しがらせて、一晩に10万円はムシり取ってやるんだ」… と鼻の穴をピクピクさせる表情は、もはやキツネではない。ハイエナだ。
 このハイエナ老人も、将棋盤から一歩はなれると、交通遺児に百万円をポーンと寄付する心の優しい豪快な老人だった。だからというわけでもないが、私はK老人が好きだった。尊敬もしていた。
 10日ほど前、このK老人が亡くなった。死んだ場所が将棋クラブだったから、家族は老人の「死に目=臨終」に会えなかった。 “将棋指しは親の死に目に会えない”という格言を、少々変則的な形だが、K老人は子供や孫たちに身をもって示したわけだ。
 死に際は、とーとーとして例の将棋人生論をブッていたというし、大勢の仲間に囲まれて息を引き取ったというから、K老人の死は“大往生”と言えるだろう。
通夜の席で聞いた
”おめでとうございます”
 K老人の死を聞いて、私は悲しみにくれて通夜の席に駆け参じた。享年(死んだ歳)が89歳だと聞いて、私はふと悲しみが和らぐのを覚えた。
「いいだろう。充分に生きたのだから」と思ったのだ。
 その矢先! 悲しみにくれる通夜の席に、 「このたびは、おめでとうございます!」と元気のいい声が聞こえてきた。
 無礼な! と思うよりも、オヤッ?! と度胆を抜かれるようなリンとした言いかたに、通夜の席の誰もがア然としていた。もっと驚いたのは、K老人の老妻の物言いだった。
 「お祝いのお言葉、ありがたく頂戴いたします。心から祝ってやってください。」
 ・・・これはいったい、どーゆーことなんだ?! と、ほとんどの人は目を丸くしていた。
 ふと老妻の顔を見ると、キッパリと悟ったような、むしろ神々しい表情だった。 ここで、誤解のないようにコメントしておきたい。
 “お祝い”の言葉を述べた人も、もちろん老妻も、K老人の死を喜んでいるわけでは決してない。むしろ愛別離苦の悲しみにくれているのだ。 それでは、「おめでとうございます!」という祝いの言葉は、いったい何を意味するのか?
 それは、こういうことだ
 誰にも迷惑をかけずに、89年という長い人生を自由奔放に生き、「世話の焼ける“寝たきり老人”」にもならず、好きな将棋盤の前でポックリと往ったK老人の“死にざま”は、お見事! と言っていい。しかも死の前日、K老人は老妻に感慨をこめてポツリと、
「まったく面白い人生じゃよ。これもすべてお前のお蔭だ。礼を言いたい。」
 とまで言い放っていたというのだ。 だから、こういう死にかたをした、そして見事な生を生きてきたK老人の死は、むしろ祝福の対象であると。これは、なかなかに複雑な考え方である。
 長い人生をまっとうした人の死を「祝う」という日本人の独特な思考方法は、いまでは少なくなってしまったが、一部ではいまだに厳然として残っている。
縄文時代から続いている遺体に”執着”する習慣
 元来、日本人の死生観は世界でも独特である。たとえば次の報告。
「(飛行機事故や海難事故のとき)日本人であれば誰しも、遺族は迷うことなく事故現場にかけつけ遺体や遺品の収集に躍起になる。それのみが故人とつながる一本の糸のように、ひたすら追い求める。けれども、こうした反応を示すのは日本人だけであった。」(松涛弘道『世界の葬式』)
 つまり、航空機事故などの現場に、日本人以外は遺体の収集に来ないというのである。
 遺体にたいする日本人の“執着”は、世界から見ると異常なほどであるが、じつは日本列島のうえでは2万年も続いていることなのである。
 縄文遺跡が示しているのは、縄文人たちの“生者と死者が渾然一体となった生活”だ。この“生活”は、私たち日本人なら良く理解はずだ。
 愛する人が死んだとしても、そんなに簡単に諦められるものではない。死体に対する執着は、それほど簡単には捨てられるものではない。
 だから、屍体は腐るまで身近な場所に置かれることになる。この習慣は、2万年前の縄文時代から7〜8世紀まで続いた。いまなお喪の期間が1年というのは、屍体がすっかり腐敗し、遺族が諦め切るまでの期間なのである。これは、2万年もの間続いてきた、屍体安置の記憶が消えないという心理現象である。
 しかし実際、時間が経過した屍体は非常に汚れたものである。愛する人のものであっても、やはり腐敗してくれば早めに「処分」したいのは人情である。ここに目をつけたのが仏教であった。
死者を弔う技術として歓迎された”火葬”
 死者を誉めたたえる戒名がつけられ、ありがたいお経があげられ、荘厳な雰囲気のなかで別れの儀式がとり行われれば、火葬の煙は魂が天に昇る証拠にも思える。
 このようにして、葬式というのは死者との別れの儀式であるが、じつは別れの技術でもあるのだ。
 日本の葬式の神髄(!)は、この火葬とお経なのである。火葬は生活を合理化し、生産を向上させる。だから大歓迎されたのである。
 日本の固有信仰には火葬に関するノウハウがなかったため、火葬をはじめとする死者を弔うための数々の技術は仏教が持ち込んできたのである。
 日本において、仏教がいまだに葬式仏教であることの歴史的な理由は以上の通りである。ところが、葬式をよく観察してみるとわかることであるが、仏教と遺族や参列者の間に
は大きなギャップがある。
仏教に”葬式”はない”葬式儒教”というべき
 たとえば、僧侶がお経をあげながら拝むのは、正面中央に飾られた“本尊”である。
 ところが遺族や参列者たちは、本尊様には見向きもせず、故人の遺影写真を仰ぎ、ひたすら「柩(ひつぎ)」を拝む。
 仏教では死者の肉体には意味を認めていない。だから僧侶は読経が終ると早々に退場する。そのあとで、僧侶抜きの場で遺族たちによって棺箱のなかに別れ花が入れられる。この行事は、したがって全く仏教的ではないのである。火葬したあとの骨を大切にして拝むなどということも仏教とは関係がない。
 そもそも天竺で発生した仏教には葬式などという儀礼はなかった。
 だとすると、葬式という葬送の儀礼は一体誰が発明したのか? ずばり正解をいうと、それは儒教である。となると、正確には、「葬式仏教」ではなく「葬式儒教」というのが正しいのかもしれない。いまや一つの産業ともいえる葬式のネットワーク、あれが仏教だと思っていると、これは勘違いか誤解ということになる。
 ともあれ、老いても人づきあいのよかったK老人の葬儀は盛大だった。そしてまた、有意義だった。だって、K老人の死は私に大変な真実を教えてくれたのだから。
 おめでとう! Kじいさん。   合掌。

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